2010年12月31日金曜日

自分の足で歩くこと








今年はよく歩きました。
僕は一ヶ所でずっとじっとしてるのが苦手で、ひまをみつけてはちょこちょこと散歩しにでかけます。この年で散歩が趣味ってどうなんだろ。まあいいや

自転車でアトリエから遠出をすることもあれば、てきとうに電車に乗って気が向いた駅で降りて、
その駅周辺を探索することもあれば、なんとなくとおりかかったバスに乗っていいかんじの所で
降りてぶらぶらしたりとか、はたまた仕事のついでとか、とにかくよく散歩をします。

その日の気分にもよりますが、かなりどこまでも歩きます。そして、その街のもつ他と似てる
けど、どこか微妙に異なる新鮮な空気を吸い込みます。

自分の足で歩くということは骨が折れることですが、どこを通ろうが自由です。
自転車をこぐのも疲れはしますが、どこに行こうが自由です。

だるいっちゃだるいですが、必ずしも辿り着けるとはかぎりませんが、電車では届かない
自分が本当に行きたかった所をみつけることができます。
そんな僕のカバンにはいつも地図が入っています。地図を見てみると、
東京など自分の生活圏に限定してみてもまだまだ知らない所だらけです。
普段よく立ち寄るあの駅も、ちょっと駅から離れたら知らない所だらけです。
僕はやはり変わり者らしく(自分に素直に生きているだけなんですが。。)、
道行く誰もが知っているような、例えば電車の駅の周辺や繁華街よりも、やや奥まった所に
あるような地元の人に愛されている公園や小さな商店街、雰囲気の良いスッキリとした
住宅街の方が好きだったりします。
そして、そういった場所を求めて歩くことは不思議と苦労ではありません。
それに、実際に地図を片手に東京の街を散歩してみると、
例えば、新宿駅から東京駅は以外と近くって自転車で気分転換するにはちょうどいいとか、
日暮里から後楽園もその気になれば歩ける距離とか、
電車だけのつきあいでは気づかなかった位置関係などの発見もありました。

なんというか、あたりまえのことかもしれませんが、自分の好きな場所とか見つけるべき場所は、
電車でチャチャっと行ける駅の周辺とか繁華街とかみたいにたくさんの人が訪れる場所、
誰もが知っているような所が全てなんじゃなくって、ひっそりとそれこそ普通なら行かないような、もっともっと色んな所にも本当はたくさんあるんだろうなと感じています。

ただ世の中の色々で見えにくくなっているだけでその人にとって大切なものは、本当は無数に
あるんだと思います。可能性はいたるところにかくれています。
あると思ってりゃあるもんです。たぶん。
何かに頼りすぎずに、鵜呑みにしすぎずに、自分の足でじっくりと歩きつづけ探しつづける
ことでその人自身ををみつけていくことができるのだと僕は信じています。
 
そういったものをみつけ出すために、これからもしっかりと歩きつづけたいと思います。
今年もありがとうございました。よいお年をおおお!!!!!

2010年12月24日金曜日

きれいなものは勇気をくれる

 

あほあほあほあほあほあほあほまじうんこよこた

最近あんまり出ていなかった悪いくせ。
過ぎたこととかまだ起こってもいない先のことばっかり考えて、肝心な「今」を生きていない状態。
未来に対して良いイメージを浮かべてるんならいいんですけど、
ダメなときの僕はわざわざつまらない所をあぶり出し、見つめて、
なぜだかあえてつまらないことばかり考えている。 
あんときあーしとけばよかったとか、こーしたらきっとうまくいかないとか、もうマゾかよと。
 
そのくせ行動は鈍い。そのくせ体裁とか外っ面は必要以上に気になったりする。
そんなお前誰も見てねーっつーの。臆病者め
つまらない想像がつまらない現実を創造する。あたりまえのことです。だけれども、
つまらない想像をなぜだかしてしまう。これも人間である以上しょうがないことなのでしょうか。

こういうときはきれいなものを見に行こう。おしゃれだとか深みだとか面白いとかはとりあえずいいから、ストレートにきれいだと感じれるもの。
たくさんの人のきれいな夢を見に行こう。


                                 *
                                 
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                                 *


そんなかんなで足利フラワーパークへ
たくさんの人たちのきれいな夢の集合体が、一生懸命、現実に現れていました。

       




















 
勇気をもって歩こう。うまくいくとかいかないとか、そういうお花死じゃないんです。
もっと素直なものなんだと思います。
世の中にはまだこんなにきれいなものがある。
そんなカップルだらけのイルミネーションの中を、やたらとテンション上がった男3匹で
ニヤニヤと不気味に動き回っていたのでした。 うおおりゃああー


  

2010年12月16日木曜日

人は鏡

 

あいつのこーいうところすごいやだ。あいつはいやなやつだから、きっとわたしがこうした
らあーするだろう。あーほんとなんなの。まじでむかつく。あいつだいっきらい。

「人は鏡」とはよくいったものです。今回は僕がとても興味深いと感じている
この言葉について書こうと思います。

その「あいつ」は「あいつ」でもあり、「私」自身でもあります。

どういうことかというと、全てを知っているわけでもない、むしろ一部しかしらない「あいつ」
に対して、無意識のうちに「私」自身の感情や性質、経験をかさねてしまい、その範ちゅうで
「あいつ」を判断してしまっているからです。

つまり、私がみている「あいつ」は、私の中での「あいつ」と、「私」自身であります。
そこにはもちろん「あいつ」も含まれますが(あいつをよく知ってるほどたくさん含まれることに
なります)、私の目に映る「あいつ」のかなりの大部分は「私」であるということになります。
ここでとても怖いこと。 「あいつ」に対してイライラしているということは、「私」に対して
イライラしているということ。自分に対して攻撃していることにもなります。 誰かに対して
イライラすると、そのイライラは解消されるどころか徐々に蓄積され、どんどん悪い循環に
はまって、しまいにはそんな自分を嫌いになり、自分の存在すら否定することになってしまい
かねません。 それは「あいつ」に映し出した「私」を攻撃しているからです。

人のことを嫌いになるにはそれ相応の覚悟が必要って映画かなんかで聞いたことありますが、
つまるところこういうことも含んでいるかなと思いました。
 
誰かを嫌いになるということは自分を嫌いになるということに、けっこうチョクでつながって
しまうのです。面白いですねー

「人は鏡」

僕はこの、色々な深い意味を見い出すことができる言葉が何気にやばい面白いと
常々感じていて、その面白さをそのうち言葉にしようと思っていたのですが、
いかんせんいざ文章にしようとするとなんだかこんがらがってしまい、又、自分の言葉に
なかなかできず結局ありがちな文章になってしまったりと、なかなか書けないでいました。
とりあえずある程度分かりやすく?ひとつ書けてよかったよかった。

今回の内容は「人は鏡」という言葉から見い出せた、僕が勝手に大切だなと思う、
そしてとても興味深いと感じている側面のうちのひとつです。
この言葉はまだけっこー色々な意味を持っているので、またそのうち別の側面も書こうかなと
思います。 そして、その言葉のもつココロをみつめ、探していくことは
僕の永遠のテーマでもあります。




2010年12月6日月曜日

彼らが見ている世界

 






アトリエのすぐ近くにいる猫です。こやつはアホみたいに人なつっこいやつで、
だいたい同じ場所にいることが多いので毎日のようにふれあっています。
おかげでかなり仲良しになりました。

かわいいやつで、話しかけると何かしら返事をします。ただし、あたりまえのことですが
「おはよう」と言っても「ニャ」、「アホ」といっても「ニャ」としか言いません。野生のくせして
人前でやたら無防備にゴロンゴロンしおってからに。
こいつらは一体何を考えて生きているんでしょうか。
動物と人間の最大の違いは、言葉の有無ということですが、ふと、言葉の存在しない生活とは
どのようなものなのか気になったので、ためしに一日なるったけ言葉なしの生活をしてみました。
単純に、(完璧には不可能ですが)言葉はこの世にないものとしてひたすら言葉を頭に
思い浮かべないようにしました。

それで気づいたこと。 まず、言葉がないと論理的に考えることができなくなり、あらゆる
物事の輪郭を保つことが難しくなり、いろいろとぼやけてきます。人間は頭がいいから言葉を
使い始めたんでしょうけど、言葉を使うことで飛躍的に論理的な思考を身につけたんだなと
感じました。  

そして、言葉を失くすことで論理的な思考力の代わりに本能とか深層的?なものをひっぱり出す
ようになります。思考>本能ではなく思考<本能といったかんじかな。

で、「はっ!」と思ったこと。

この、論理的な思考よりも、(どちらかというと)深層心理的な部分、本能や感情のようなもの
に支配された世界は、夢の中の世界とかなり似ているのではないか。

夢の中に論理や現実的な理屈はあまりないように思います。どちらかというと、その人の
本能や感情に従った、論理性に欠けた曖昧な世界がチャチャチャッと創り出されていて、物事の
輪郭はぼやけていることが多いです。論理がないということは、おそらく言葉があまり存在しない
ということなのではないか。言葉がない分その世界は瞬時にめまぐるしく創造され、
論理がない分 記憶として刻まれにくく、すぐに忘れてしまう。

反対に、現実の世界はどうだろうか。これが見事に夢の中とは反対のようです。
本能とかよりも、どちらかというと論理的思考や言葉に支配された世界で、物事の輪郭は
かなりはっきりしています。記憶も頭にある程度しっかり残ります。

つまり、夢と現実の違いは、その世界において言葉、つまり論理的な思考をたくさん使っている
かどうかによるものなのではないでしょうか。論理か本能か。




猫や犬、パンダ、イルカ。。。 気になる動物はたくさんいますが、彼らは何を見て、
何を感じて生きているのでしょうか? 単純に、人間が現実において比重をおいている思考力や
論理の観点でそれを考えてもあまり意味がないことだと思います。

そもそも彼らはほとんど言葉のない世界で生きています。そして、論理をあまり必要としていない
世界で生きているともいえます。そして、人間にとって彼らは現実世界にいながら、
夢の中にいるようなものなのだという考えに至りました。

動物には人間にとってなぜだか理解しがたい不思議な力(帰省本能や飼い主の帰りが
分かったりとか)がありますが、その不可思議さは夢の中の出来事だと思えばあまり不思議では
なくなります。夢の中ならコツをつかめばできそうなかんじがします。そりゃあ生きてる世界とか
次元が違えば、人に見えないものが見える、感知できたりもするでしょう。

彼ら動物は人間の見る夢と同じような世界を見ている。そしてそういう世界にいる。かもしれない。 
以上、僕の勝手な憶測でした。休日に長々と真剣にそんなことを考えていたのであります。
これが真実かそうじゃないかはどうでもいいとして、まあ本能や感情の面白さを再認識できたし、
論理的思考のおかげでここまで話をふくらますことができ、言葉にすることができました。
そんでもってこういうことの仕組みを自分なりに解釈していきコツをつかめば、
もっと楽しく服づくりができるんじゃないかと思います。

また僕にとって世の中は立体的になり、楽しいものになってきました。
        

 

2010年11月22日月曜日

つづく

        

この前、ある化粧品の撮影の衣装にうちの服を使用していただき、
ありがたいことにその場で今期の服の撮影をすることもできました。 
今期のオーダーもまとまってきて、ようやっと落ち着いた生活になってきました。                                                                      ありがたいことに満足いくだけの注文を頂くことができ、またこれから次のコレクションに向け
有意義な時間を過ごせるかと思うとワクワクしてきます。次は何をつくろうか。

当たり前のことですが、僕の服を着てくれる方がいるから喜びとともにスムーズに前に
進むことができる。次が見えるのです。 

学校を卒業し、いわゆる社会に出てもう何年か経ちますが、未だに自分と素直に向かい合い
ながらこの社会の中で服といっしょに生きることができている。  
特に僕は学生のころ、社会の中でそんなふうに贅沢に、自分の感じるままに生きていくことが
できるのか不安だったように思います。技術的にはもちろん、センスや精神的にも。

でも、なんだかんだで「やらねばならん」といった場所に身を置いていくことでいろいろ
ちょっとずつましになっていって、いろいろ理解することができてきて、いろいろ許容できることも
増えてきて、(時間的に追い詰められることはしょっちゅうあるにしても)今の僕は子供のころよりもたくさんのことから解放されているのかもしれません。 まだまだ問題、課題はありますが、
良いところをたくさんみつけることができてきた。

でも、そんな仕事の中での有意義な時間は常に用意されているものだと考えては
いけないんだろうな。そのスタイルを受け入れてくれる人がいてくれることで成り立っているのです。

とてもとてもありがたいものなんです。あって当然のものではないんです。だからもっとよいものを
つくらないと。もっと深く密接に自由にならないと。 自分、服、社会。 

それがこの世界で、僕が生きていく道なんだろな。

次のコレクションのテーマが今の段階で微妙にみえてきてしまっていて、11-12AWの制作に
はやくも取り掛かりたいといった気持ちで満ちてきました。
ちょっと前まで今期(11SS)の服やってたのにはえーよ。。  
いつもは注文分の制作とコレクションのデザイン、制作は期間をきっちり分けているのですが、
こういった気持ちにはできるだけ正直であるべきだと思いますので、
今回は同時進行気味にやろうかなと思います。

次はどんなふうにするか。もちろんこれまでの反省、あらたに見えてきたことを活かすのは
当然ですが、どこまで冷静にスパークできるか。もっと真剣に一着の服を。

どこまでいけるか。  




   
       

2010年10月31日日曜日

何かを表現する理由①

 

      



なぜ僕は服をつくるのか。なぜ服を通して何かを表現しようとするのか。

特に自分でブランドとしてやっていると、やはりやらなければならないことも多すぎて休みもとれずあれやこれやで目が回るようなことも多いです。ありがちですが、自分のやりたいように
すると仕事としてあまりに非効率的になることも多いです。けっこう体張るし。

それでも服をやっていない自分は考えられない。なぜそれが楽しいのか。つくりたいのか。

単純につくることが得意だから楽しいということもできる。
子供の頃から何かをつくったり絵や漫画を描いたりするのは得意でした。
もうひとつパッと思いついたのは、知的好奇心というか、ある程度服をやってきて、
自分の表現のベースのようなものができてきました。自分の表現をより深く自由にできるように
なってきているので、地道に一歩一歩、表現を進化させていくということも大きな喜びであるのは
間違いありません。

上のふたつだけでも、表現をする理由として十分なかんじがしますが、
肝心な何かが足りない。さびしいことに、そこには僕しかいないのです。

そして、ああ、根本的な理由はこれだ! という結論に至ることができました。

表現とは、字の如く表に現すということで、その人の色々を表に現すことで誰かに何かを伝える
ということです。誰かに伝えないのであれば、表現する必要がないのです。

つまり、自分が表現したものに対し、何かを感じとってもらいたいからつくっているということで
あります。それが一番の答えです。  
感じてくれる人がいてはじめて、その表現は存在することができるのだといえます。 
感じとってほしいから、印象になりたいから、自分が何かを表現する手段として得意な
ものづくりを選んだということです。

今でも覚えています。幼稚園の年少だか年中だかはわかりませんが、
絵はそこそこ得意だと既に自覚していた当時の僕(はじめて描いた絵は昆虫図鑑を見ながら
カブト虫でした)は、仲の良かった女の子にあげようと、ドラえもんやらオバQやらパーマンとかの
絵をよく描いていました。喜んでくれるから。

仲良しの女の子に喜んでほしくて絵を描いた。実は今もあまり変わらないのであります。

何かを感じてほしくて服をつくる。その人と面識があろうがなかろうが、あまり関係はありません。
女性だろうが男性だろうがあまり関係ありません。ただ、そこに(できれば前向きな)何かを感じて、何かを見つけていただければ、その表現は表現になることができ、意味が出てきます。

今さらながらですが、そんなことに最近気付きました。それが服をつくる理由だったのか。
逆に、自分の表現したものが誰の、何の印象にも残らないなんてゾッとします。


展示会。いつもはじまる前は一応デザイナーなんだからもっとクールに、スタイリッシュにとか
考えてはみるんですが、なんだかんだで僕はアホなお調子者なので、色々な方々とお話している
うちに、ましてやこの服かわいいなんて言われると、僕は調子にのりはじめ、どうでもいい
(むしろいらない)ことをベラベラ話ししてしまいます。それでまたべらべらとアホやっちまったと
後悔する。だいたいいつもそんなかんじです。

僕の服を見て喜んでくれた方、良かろうが悪かろうが、何かしらの印象をもってくれた方、
どこかひっかかって足を止めてくれた方、本当にありがとうございました。

たぶん、そのひとつひとつが表現ということであり、何かの完成に向かっていくことなのだと
思います。





2010年9月28日火曜日

2011年春夏コレクション

 

 
 







                                  はるかきみへ




                         2011 Spring & Summer Collection





                        
                                   「 teard 」

                      




                             
                  日時 : 10月19日(火)、20日(水)、21日(木) 11:00~20:00 

          会場 : 国立代々木競技場 第一体育館 roomsLINK内 JFW支援エリアにて発表します。


                             http://www.roomslink.com/

                
                




2010年9月19日日曜日

心の奥に広がる世界

 

ここ最近ずっと次のコレクション(roomsLINKにて10/19~10/21に展示発表します。)に向け、
もう無理ですってくらい服づくりにいそしんでおります。
体は正直者で、頭や体、心が「もうこれ以上やったらおまえマズイことになるよ」
というところで反応を示してきます。なんだか色々と微妙な違和感があり、特に服に
関することを考えるだけで気持ち悪くなり、もう吐き気がします。

まあいつものことだと思うと同時に、このあたりが今の僕の集中力の限界なのかなと
感じました。もうやんなっちまいます。

そんななのでしょうがないなと思い、土日ということもあり昨日今日と休みにして、
なるったけ服のことは考えないように過ごすことにしました。
それでもってせっかくなので久しぶりにブログを書いたのであります。

ちなみに写真はお盆に友達と行った丹沢湖です。


        

    
         
心には面白いことにちょっとした扉のようなものがあり、その奥には楽しい世界があるようです。

抽象的でありうまく表現できませんが、何かに向かって深く静かに集中し、
心とその人の軸のようなものを合わせると、心の奥にある世界に入れるようです。

その世界には、多分その人の純粋な記憶の世界があり、無意識であり、時間を超えた
経験やら喜びやら悲しみが広がっています。俗な言い方をすると、深層心理とか、
はたまた才能とかに当たるのかな。

そして、その世界にどうにか入り込み、偶然なり必然なり何かいいものをつかみとってきて、
この現実世界にて(僕の場合は)服という物質にしていきます。そうすることで夢を含んだもの、
はっとするもの、人に何かを感じさせうるものができるのだと思います。

当たり前ですが、僕が表現したいものはその扉の先にある世界であり、その世界にいくには
集中力、それを現実で目にみえるものにする精度、表現力が必要になります。

何よりもその世界とリンクしつづけていることが大切なんだと思います。
冒頭にて書いたように、集中には限界があるようで、まだまだ僕自身未熟であり、
不器用であり、何かとスムーズにいかないことが多いです。

楽しいことばかりではありませんが、とにかく自分自身をしっかりと見つづけたいと思います。
そしてそういったうまく言葉にできない自分でもよくわからないものをさがしつづけます。
色々越えていきましょう。     


2010年7月9日金曜日

思い出す

 

よく耳にするフレーズ。
他の誰かと自分を比べて、足りないものを見つけ、刺激をもらって成長。。。
一見、世の中で良しとされているスタンスであり、確かにとても大切なことです。
でもそればっかりじゃつまらないと思うのです。そればかりだとつかれますよね。いちいち自分の足りないところばっかり見てても面白くもなんともない。
だからときには逆のアプローチでいきます。

音楽の神様だとか、サッカーの神様だとか、服の神様だとか。。。
人それぞれ色々神様がいるようですが、僕にとっての神様は僕の外側にあるものではなく、
僕の内側にあるものだと感じています。
自分はあれが足りないではなく、自分は元々、まあ大体完ペキなんだということにして、
ただ、色々忘れてしまっているだけなんだと考えるようにして、深く、感覚的に思い出すために
いろんなことを体験していく。そのために生きている。

例えば僕の場合だと、思い出していくために服をつくっているともいえます。
僕はそうした日々思い出していくなかでみつけたことが時に必然的に、
時にちゃらんぽらんにかさなりあって、この目に見える世界でのひとつの形として、
又はその象徴的なものとして、服が出来上がっていくということです。

たとえばヤバイかわいい柄の生地を見つけたら、そのヤバイかわいいという感覚を
見つけたことは、自分の中の何かを思い出したということ。

別に、生地とか服に関することじゃなくても何でもよくて、何か前向きな感覚を得ることが
大切だと思います。 前向きな感覚がひとつのものさしとなり、そういったことのつみ重ねや、
ときには思い出した感覚同士の一期一会で服ができていくことが多いです。

僕は何々が絶対正しいとか、ひとつの価値観、考え方が全てだとは思いませんので、
冒頭のように自分と自分以外の人間を比べることもけっこうあります。

でも必要以上に比べてしまうと、次第に足りないものばっかり見るようになっていき無駄に
へこむだけなので、基本的には自分と比べるのは自分自身であるとしています。

見つけたこと、思い出したことに一喜一憂している方がなにかと気分がいいしテンション上がる
ので、僕にとってこういった思い出す的なことは自然なことであるんだと思います。 
そして、自然になればなるほど、元々の大体完ペキな自分自身に近づくことができ、
そういったところに神様のようなものを感じるのです。

2010年6月25日金曜日

6月25日早朝

     

  



夜中の3:30からのWC日本対デンマークの試合を観に、近くのスポーツバーに行ってきました。
マジでマジでマジでマジでまじでまじでまじでまじでまじで勇気をもらいました。
ひたすら声を張り上げて応援していました。
知らない人たちと手をつなぎ、抱き合いまくってました。
あついあつすぎる。楽しかったー
試合が終わってから外に出たら空が明るくなっていたので、いっしょに観てた人たちに挨拶して、
とりあえず早朝の新宿を友達二人とさけびながらダッシュしました。歩道橋の階段は
三段跳びです。全力疾走したのも久しぶりでした。

それから見知らぬホスト二人組みとうおおおと馬鹿みたいに喜びを分かち合い、
さっき帰ってきました。

ふだんならこんなことありえないですが、今日のこの瞬間は許されるのです。  
だから思いっきり堪能してやりました。

それはもう嬉しいのに、悔しくなるくらいたくさんの人たちがひとつになっているのでした。
なんて気持ちがいいんだろ   
      
うぐむう 妙にそわそわして寝られん




2010年6月16日水曜日

若き時間の流れ

 

先日ぷらっと実家に帰ったついでに、久しぶりに地元である厚木の街をぷらぷらしました。

前にも書きましたが、僕は神奈川県の西部(秦野市)を地元としています。
僕の地元では買い物は近くの大きめの街である厚木ですませることが多く、生まれつき
何かと縁の深い街なのです。
ちなみに僕は厚木のとある病院でどしゃぶりの中いきなり生まれたそうです。

厚木市の隣には海老名市があり、その2つの市の間には相模川という大きな川が流れています。
あいにくその日はほんの少し雨が降っていましたが、気にせずにその川沿いをひたすら
歩いてみました。 夏のにおいが届きはじめていたこともあり、
どこまでもいけそうな気持ちだったのであります。

昔は生活圏だったので、しょっちゅう用事があっては訪れていた厚木ですが、
今では特別行かなければいけないといったことも滅多にないので、ちょっと駅から
離れてしまうとその場所自体が僕にとって久しぶりの場所となり、前にこの道通ったときはまだ
学生だったなとか、その時は確かあんなこと考えてたなとか、自然と心に浮かんでしまいます。

同時に、それはちょっとした潤いを僕に与えてくれます。
今は服ばっかですが、あの頃は色々、あれやこれや悩んでたなと、今とはまたちょっと違った
潤いを取り戻すのです。

話はかわりますが、ちょっとまえに友達と時間の感じ方についてあつく語る機会がありました。
年齢をとるにしたがって、時間の経ち方が早く感じるようになるのはなぜかということ。
たしかに僕も昔に比べて時間が経つのが早いなーと思うのです。一週間なんてあっという間です。

一般的な意見としては、時間に追われることが多くなる、とか、自分の生きてる年数との相対的な
対比(例えば10歳の人の1年の感じ方は20歳の人の1年の2倍といったかんじ)などが
挙げられますが、僕が面白いなと思った話は、 「だんだん悩むことが少なくなるから」 
といったことでした。

だんだん悩むことが少なくなる。もう少し具体的に説明すると、
人それぞれ色々な経験をしていき、生きていく中でおこる様々なことが、その人の中でじょじょに
パターン化できてきて、特に人間関係など、いちいちあれこれ悩まなくても大丈夫に
なるからだそうです。

ある意味自分を守るために。心が強くなるというか。。
こーいうときはあーだから、あーいうときは経験上こんなかんじだと思われるから
大丈夫、しょうがない。。などなど

たしかに昔はささいなこと、友達や他人のちょっとした行動が気になったり、悩むことが多かった。
今の僕なら気にも止めない、むしろ笑いとばすようなことで。

はじめは時間の感じ方と悩まなくなるといったことの関連にイマイチしっくりこなかったのですが、
その日たまたま会った知り合いに同じ質問をしたら、あんまり悩まなくなるからかな、と全く同じ答え
が返ってきてびっくりし、ちょっと真剣に考えてみたのでした。

今現在、好きに服をつくって、服のことばっか考えて生きているわけで、もちろん僕が望んでそう
なったわけであります。それに、なんだかんだで生きてきて今が一番充実してるように思います。

久しぶりに厚木を歩いていると、厚木の街に毎日のように出没していた頃の僕は、服以外のこと
でも大いに悩んでいたなと、なぜだか胸があつくなるのです。将来やら恋愛やら悩みなんて
人それぞれですが、悩んだって意味ないし、つかれるだけだし。でも、あつくなる。

やっぱりその、今となってはあほくさい無駄なことに、きっと言葉にできない潤いがあるんだと
解釈できます。しかも時間の感じ方にも影響するかもしれないなんて、それはロマンですな。
若さというものの素晴らしさがほんのほんの少しみえたかもしれません。

必ずしも素直に美しく割り切れるものだけでなく、割り切れずにあまった何かにこそ
感じ入るものがある。それが人間。

別にすすんで悩もうとは思いませんが、またひとつ思い出すことができそうです。

 

2010年6月5日土曜日

明るい存在

 

      



 
       世の中すごいですよね。

       こんなかんじで僕がブログ書いて、ネットがつながってれば世界中どこからでもそれを

      見ることができ、出逢ったことのない人たちに伝えることができる。

       ひとむかし前の僕はそんなことができるようになるなんて考えることもできませんでした。




       特に夜中の時間帯は、なんとなくぽっかりというか、ほんの少しだけものさびしくなることがあってか、

      ここ最近、昔はまったゲームやアニメなどの動画を見ることが多いです。


       その中で特に僕を満たしてくれたのはキャプテン翼ⅣとドラクエⅣの実況動画でした。


       
       まず、キャプテン翼のゲームを知ったのは小学4年のときで、友達が持っていたサッカーゲームを

      買おうとしたら売り切れていて、かわりにサッカーつながりでなんとなく買ったファミコンソフトが

      キャプテン翼Ⅱという名作でした。あのころのゲームにしては本当によくできていて、とにかくはまり

      まくりました。

       そしてこのゲームは僕の小4の頃のささやかな夢、サッカー選手の原点になったもので、登場する

      キャラクターになりきって、学校の休み時間や放課後に友達とサッカーをしたものです。


       見るだけでなく、実際に自分たちでそのキャラクターになりっきたりしただけあり、メインのキャラクター

      から脇役、ザコキャラ、全ての登場人物にとても愛着があります。 

       分かる人には分かると思いますが(キャプつばに興味ない人、すいません。。)、 僕にとって、

      キャプテン翼は翼くんや岬くん、日向くんなどのメインキャラよりも、松山くんや新田くん、早田くんなど

      のサブキャラの方がたまらんのです。 もう森崎くんとか最高です。

       そして僕はキャプテン翼ⅠとⅡ、Ⅲはプレイしたことがあったので、Ⅳの動画を見たわけです。

      僕が見ていた動画を実況されていた人もサブキャラ好きのようで、

          カミソリシュート! スカイラブツイン!! 隼ボレー! さのとのコンビプレー!!  

      といった具合にそういったサブキャラを、惜しげもなくプレイしてくれているので、テンションあがりまくり

      ました。



       また、ドラクエではⅣが一番好きなんですが、このドラクエⅣの発売と同じくらいの時期に

      キャプテン翼にはまっていました。当時の僕はたしかこのドラクエⅣの登場人物のアリーナ姫に大層な

      恋をしていて、アリーナを想いつつ隼シュートを打っていたように思います。

       ドラクエⅣはファミコン版のほかにPS版とDS版もあり、僕はファミコン版しかやったことがなかったので、

      実況動画ではPS版を見ました。長い時間を経てまたドラクエⅣと再開できてとても幸せでした。



       そういった具合にニタニタしながらそういった動画を見ているのですが、とても明るい気分にさせて

      もらえるのです。内容が面白いからとか懐かしいからとかだけでなく、登場するキャラクターから得れる

      明るさに惹かれて僕はそれらを見てしまうんだと思います。ひとりで見てるんだけど、ひとりってかんじ

      がしない。好きになったゲームとか漫画のキャラクターって直接話すことはできませんが、友達みたい

      なもんなんだと思います。うまく説明はできないけど、僕は子供の頃、寝るときには必ず枕元にドラえもん

      か、おばけのQちゃんだか、何かしら漫画本を置いていました。それと同じことなんだと思います。

 
       そこには作者やたくさんの読者など、たくさんの色々な愛があるのだと思います。そこに人はいない

      のに、人のような暖かさを感じることができる。あたりまえなようですが、つきつめて考えてみると

      とても不思議だし、夢のあることなんだと思います。



       もちろん人それぞれスラムダンクだったりセーラームーンだったりワンピースだったり、はたまた何かの

      小説だったり音楽だったりアイドルだったり、そういう存在があってその人が愛着をもったということは、

      それはその人自身なんだと思います。やっぱり世の中って面白い。
      
 
 
 
 
 
 
 

2010年3月28日日曜日

2010-2011 秋冬コレクション

          
           




                                  はるかきみへ




                       2010-2011 Autumn & Winter Collection





                        
                                  「感性共栄」

                      




                             
                 2010.4/20-4/21 青山ベルコモンズ10F 展示形式にて発表します

                    ご来場案内詳細 : http://www.exhibition-style.com/

2010年3月3日水曜日

つながるということ



        

                                         



今回の大阪での一週間はとても有意義なものとなりました。

まず、この期間限定ショップはユグドラシルさんのお力なしには成り立たないものでありました。
そして、僕にとって区切りとなったこのイベントをいっしょに行えたことをとても嬉しく思います。

今回得ることができた一番の財産は、僕の服に何かを感じてくれた方々と
直接お話できたことです。

わざわざ遠くから服を見に来てくれた方、二回も来てくれた方、閉店時間になってもテンション
上がりすぎて帰るのを名残惜しそうにしてくれた方、僕の服に何かを感じてくれていた方、
みなさん本当にありがとうございました。ひとりひとりの方とじっくりお話することは
できませんでしたが、普段そういったなんとなく光っているひとつひとつの印象をぼんやり
頭に浮かべながら服をつくっているのです。そうすることで僕はすごく楽しくなります。 

服を通して何か前向きなものを感じてもらえること、嬉しくなるような何かを感じてもらえたという
ことは、どこかでつながれたということです。それは直接目に見えることではありませんが、
この世の中でとてもとても大切なことで、素晴らしいことなんだと思います。 
だから、服をつくるのです。

まだまだ力不足な僕ですがこれからもマイペースに色々進化していきます。
服を通して色んな楽しい世界をお伝えしていければと思います。ありがとうございました。



                                     

2010年2月23日火曜日

むかし見た景色

  


    




春のにおいがしてきました。いよいよ明日から阪神百貨店にて期間限定ショップがはじまります。

上の絵は前にもこのブログに貼り付けた2010年SSコレクションのインビテーションなのですが、売り場はこの絵にできるだけ近づけようと考えております。

この絵は僕にとって思い入れの深いものです。どういった経緯でこういった絵になったのかと
いいますと、構図やテーマは僕が服を志したころ、二十歳ぐらいのときから頭にひろがっていた
イメージです。とても抽象的になってしまい申し訳ないのですが、自分でも意味不明ですが
なんだかずっとこんなかんじのイメージが頭に焼き付いていたのです。

そのよくわからない景色が何なのか知りたくて、自分でブランドをはじめてからつくってきた服を
一気に描き込んでいき、具体的に絵という形式にかたちにしたものなのです。
そして、そのイメージが何なのか理解できたときがひとつの区切りかなとずっと感じいました。

頭に広がっていたよくわからない景色が服を着て絵となることでちょっと具体的になり、
今日その絵を売り場としてかたちにすることで、現実化します。
しっかりこの現実の世界と見えない世界をリンクさせたいと思います。どんななるんだろ。


 

2010年2月10日水曜日

期間限定ショップのお知らせ

 

2月24日(水)から28日(日)の5日間、阪神百貨店梅田本店の3階エスカレーター前
イベントスペースにて、以前このブログにて書かせて頂いた南船場のセレクトショップ、
ユグドラシルさんのオリジナルアクセサリーブランド 717×717 e11f と共に、はるかきみへ
期間限定ショップがオープンします。今期春夏の商品を中心の展開になる予定です。

僕のようなちゃらんぽらんなのが百貨店で売り場をもてるということはとても光栄なことですし、
ユグドラシルさんとは将来的に何かしらいっしょに仕事できたら楽しいなと前から感じていたので、思いのほか早く実現してしまい嬉しいかぎりです。

僕的に一番の価値あるワクワクポイントは、阪神百貨店さんにユグドラシルさんと僕という
組み合わせを最初から狙っていたわけではなく、色んな偶然やら必然やら僕のどあほ計算ミス
やらが重なって、ふっ とこの状況が生まれたということ。こういうのがたまらなく好きなんです。

当日服といっしょに僕もいると思います。今期の服だけでなく、昔つくったかわいいのやら
楽しいのやら面白いのやらへんちくりんなのもいっしょにお待ちしております。

たくさんの印象になれますように。

2010年1月6日水曜日

過去現在未来



       


      
誰しも生まれ故郷など、どこにいようが本能的に気持ちはそこにあるといったような場所が
あるかと思います。写真の橋はぼくにとってそんな場所のひとつです。

僕は神奈川県の秦野市という自然豊かな土地で育ったので、体が自然と自然を求めます。
この橋は風の吊り橋という名前で、同市の丹沢の麓に位置する県立戸川公園の中に存在します。
普通は小田急線の渋沢という駅からバスで行くような場所なのですが、
公園の横に丹沢湖から流れ出ている四十八瀬川という川があるのを発見したので、
駅から川沿いの道を通って歩いて向かうことにしました。 
実家で親父に貰ったとらや のようかんをポケットに入れつつ、ちょっとした探検気分を
味わいました。かなり道に迷いましたがなんとか無事に到着。

ここには節目節目に訪れていて、前に来たのは2年半くらい前でした。

2年半前といえば、はるかきみへ は未だ存在してなくて、僕自身は色々で、いい歳して
何もしていない、
結構どん底な生活を送っていました。せめて気力があればいいけど、肝心なやる気も出ない。
貯金も0だしまいったなこりゃ。
まあ、なんというか精神的にもそれ以外も結構最悪な時期だったわけです。 
組織と違い、ひとりになったら何もできない無力感。なんにもないじゃん。

そんな闇の中で、恐怖にまぎれてただひとつあった恐怖とは少し異なる感覚。
どういう状況にせよ自分の服を、そして純粋に自分自身を探していかなければならない流れに
入ってしまったという感覚だけ。

いつも僕は楽しいこと、ワクワクすることとか言ってますが、
このときばかりはそんなんではありませんでした。暗い暗い闇の中。
あるのは頭の中で反すうされる つくれ という言葉のみ。やる気なかろうが。

だからどうにかこうにか作ってみたものです。嫌々に、愛すべき魂のない心無き服たちを。
またつくることが楽しくなるときがくることを信じて。あの時の僕にできることはそれだけだった。



   
                                  *


                                  *


 
そんな二年半前の僕に向かって橋の上から叫んでやりました。心で。     
そのうち楽しくなってくるから絶対に服からはなれるなと。お前の気持ちもわかるけど、
つくれつくれつくれとにかくつくれええええ

新年早々うざくてすいません 

過去の僕も、今の僕も、そして未来の僕も、僕は僕です。ぜんぶくっついています。
妄想といえば妄想だし、真実といえば真実。なんでもいいんだと思います。
なんかいいなこの感じ。

さあ、2010年のスタートです。

まだまだ未完な今の僕に向かって叫んでいる、未来の僕の声を聴くために、
しっかりと耳をすましていきたいと思います。