2013年4月9日火曜日

時間旅行




 





ドラえもんでもなんでもいいや。
どこまでも無限に遠くまで見える望遠鏡があるとする。
100光年離れた星は100年前の光が今地球に届き、100年前の姿が今見えているように、
たとえば200光年離れた星、もしくは宇宙空間から地球を見れば、
江戸時代あたりの日本を見ることができちゃいます。
相対性理論によれば、200光年離れた場所から光の200倍の速さで1年で地球に移動すれば
199年前にタイムスリップできるそうです(間違ってたらごめんなさい)。
でも、重さのあるものは光の速さを超えることはできないみたいなので、
体ごと時間を超えることはなかなか難しいでしょう。 
でも、自由に見るだけならできる気がします。

さらに創造を脹らませ、望遠鏡の機能をさらに引き上げ、
50億光年の遥か彼方先にある、青い星をじっくり眺めてみる。
そこには地球とうりふたつのような文明が栄えていて、美しく整備された自然、綺麗な建物、
たくさんの乗り物、幸せそうな家族、可愛い服を着た子たち、、、
みんな楽しそうに笑っています。 歴史の営みを感じます。
宇宙は無限に広いわけだしそんなことだってあり得るでしょう。そんな豊かな光景が見えます。
でもそれは50億年前の笑顔です。まだ地球は生まれてもいない昔昔昔です。
実際には、笑顔どころかその星自体がとっくの昔、地球と入れ替わり位の時期に
小惑星の衝突か何かで消滅しています。
望遠鏡をとおして見える笑顔やら可愛い服やら素晴らしい文明は、
細かい塵となり宇宙空間を何かの軌道に沿って周っていることでしょう。
もしかしたら地球はその星の生まれ変わりかもしれません。
とりあえず、残っているのは光の記憶のみです。
心には重さがないからだろうか。心の中ではある程度、過去を感じ、振り返ることができます。
未来を感じることができる。曖昧ではあるが、時間を移動することができる。
それは当たり前すぎて忘れがちだけど、
時間軸を超えて何かを感じることができるということはすごいことなのだと思います。
前にもブログで書いたことだけど、
心は、体とはちょっと違った光の速さとかを基準にした別の次元に所属しているのかもしれません。
僕が生まれたあのどしゃ降りの雨の朝、校庭でサッカーやってたあの日、修学旅行のあの瞬間、
楽しかった夏の思い出、色々打ちのめされてフラフラ最悪だったあの日の帰り道、、、
もちろん建物の中とか空が曇ってるとか大気で、宇宙から見えねーよとかもありますが、
とりあえずそういうのは置いといて、望遠鏡さえあれば、もしくはとんでもない視力があれば、
その一瞬一瞬、宇宙のどこかに見える場所があるということです。
僕のその時々の像は光の速さで移動しながら、
宇宙空間に永遠に存在しつづけることになるってことなのです!!
どこかの人知を越えた神様は、仕事としてか、興味でか、気まぐれかは分かりませんが、
壮大な方法で永遠に色々を記録しつづけているのかもしれませんね。
おつかれさまです。

2013年1月9日水曜日

好きなのに嫌い



ちょっとおそくなりましたけど、あけましておめでとうございます!

明日からいよいよ、はるかきみへ の大阪での展示会が始まります!
大阪。イベントで行ったことはありますが、いつも時間がいっぱいいっぱいでぶらぶらすることが
できず、土地勘がほっとんどございません。知ってる人もあんまりいません。

そんな心細くなってしまうような場所に、すでに僕の服を知ってる人がいらっしゃるというのは
とても心強いことでして、なんだかとてもロマンなことでして、実際に見に着ていただけて、
直接お話しできたりするのかなと思うとテンション上がります。

そんじゃこれから搬入に行ってきまっす!






                   

前回(12/25)のブログで、

このことは次回説明するゼと添えて僕はこんなことを書きました。

『 だがまだ終わりではない。さらに先に進むためには、そんな積み上げてきた大切な大切な
自分らしさすら、壊していく必要もあるようです。』 

ではでは、一体それはどういうことなのか。詳しく考えていきたいと思います。
僕の服にはギャザーとかフリルとかレースとか淡い色づかい、アンティーク、ふんわり感、、、
そんなかんじな服はやっぱりすごい好きです。好きなもんはしょうがないべ。
 でも、実は嫌いでもあるのです。嫌いなもんもしょうがないべ。

ん、、好きだけど嫌い? どっちだよ!

この、好きなものを好きであると同時に、いつのころからか芽生えてきた’嫌い’という感情。
実は実はじつは、これはものづくりにおいて、とても大切な感情なのであると僕は思うのです。

ではなぜそのような感情が芽生えるのか。簡単にいってしまうと、
自分らしいものをつくりつづけ、より高い水準にしていくことで、
自分らしいもの以外がつくれなくなるからです。
自分らしいもの以上の水準のものを、自分らしいやり方以外でつくる自信がない。
結果、自分らしさに依存するようになってしまう。そんな自分が許せぬ。大体こんなかんじ。

いつのころからか、はるかきみへっぽいものばかりつくってしまっている。 んん、、んんん、、、!
はるかきみへなんだから別にいいじゃねーか! そのとおりです!!
それを目指してきたんだから別にいいんですけど、本能では、変化も求めてしまっている。

同じ場所に居続けてはいけないと、これまでの世界にとんがったナイフをつきたて、
それを切り裂こうとしている。もちろんこのかんじは以前からある感覚ですが、
そんな感覚が最近になって本格的になってるんです。
もちろんこれまでの世界は頑強に抵抗するので、そう簡単に切り裂けなんてしませんけどね。

もうよくわかんねーな。必死こいて見つけてきたはるかきみへの世界に自らとんがりナイフ。
じつはけっこう前から僕の中ではそんな不思議な戦いをしています。マゾよこた。

不思議ですが、これは正しいことだと思います。
表現において、変化は正義です。最近特にそう感じます。 

そして、新しさはその一連の中で求めていくべきものであります。
もっと突っ込んでいうと、新しい自分に出会うために表現しつづけている。
たとえばいつかの未来、僕が死ぬころ、築きあげてきた自分の人生全体を通した視点で
見てみれば、

今の僕が新しい自分に出会おうと必死こくことは、より深く自分を知るということだ。
新しい自分自身の感覚を知るということですから。

そのマゾナイフが特に一番気に食わないもんは、おそらくつくりあげてきた自分の世界にドヤ顔
しているやつが嫌いなのではないか。可愛い服だから何なんだよ。そこに本当のお前はいるのか。
まだまだお前は無知だ。生きてる限り満足してんじゃねーよ!!と。 ザクザクぶしゅうう

好きは嫌いの裏返し。嫌い嫌いも好きのうち。ってこういうことでもあるんかなと思います。
表現において、マゾです、僕は。最近特にそう感じます。

新しさとか変化とかそれでいて可愛くとか、はっきりいって難しいですよそんなの。でも、それでも
そこに向かっていくのと、そんな自分を見て見ぬふりするのとでは全然ちがうと思います。
出来上がるモノは、ただの平和ではなくなるはず。

今年、可愛らしくあれという僕の服づくりにおける絶対神のもと、
はるかきみへが好きな自分と嫌いな自分の戦いが、相反する僕の中での格闘が、
素晴らしき明日への服へとつながっていくことを切に願い、服づくりに励んでまいります。

今年一年、また見ててください☆