2010年10月31日日曜日

何かを表現する理由①

 

      



なぜ僕は服をつくるのか。なぜ服を通して何かを表現しようとするのか。

特に自分でブランドとしてやっていると、やはりやらなければならないことも多すぎて休みもとれずあれやこれやで目が回るようなことも多いです。ありがちですが、自分のやりたいように
すると仕事としてあまりに非効率的になることも多いです。けっこう体張るし。

それでも服をやっていない自分は考えられない。なぜそれが楽しいのか。つくりたいのか。

単純につくることが得意だから楽しいということもできる。
子供の頃から何かをつくったり絵や漫画を描いたりするのは得意でした。
もうひとつパッと思いついたのは、知的好奇心というか、ある程度服をやってきて、
自分の表現のベースのようなものができてきました。自分の表現をより深く自由にできるように
なってきているので、地道に一歩一歩、表現を進化させていくということも大きな喜びであるのは
間違いありません。

上のふたつだけでも、表現をする理由として十分なかんじがしますが、
肝心な何かが足りない。さびしいことに、そこには僕しかいないのです。

そして、ああ、根本的な理由はこれだ! という結論に至ることができました。

表現とは、字の如く表に現すということで、その人の色々を表に現すことで誰かに何かを伝える
ということです。誰かに伝えないのであれば、表現する必要がないのです。

つまり、自分が表現したものに対し、何かを感じとってもらいたいからつくっているということで
あります。それが一番の答えです。  
感じてくれる人がいてはじめて、その表現は存在することができるのだといえます。 
感じとってほしいから、印象になりたいから、自分が何かを表現する手段として得意な
ものづくりを選んだということです。

今でも覚えています。幼稚園の年少だか年中だかはわかりませんが、
絵はそこそこ得意だと既に自覚していた当時の僕(はじめて描いた絵は昆虫図鑑を見ながら
カブト虫でした)は、仲の良かった女の子にあげようと、ドラえもんやらオバQやらパーマンとかの
絵をよく描いていました。喜んでくれるから。

仲良しの女の子に喜んでほしくて絵を描いた。実は今もあまり変わらないのであります。

何かを感じてほしくて服をつくる。その人と面識があろうがなかろうが、あまり関係はありません。
女性だろうが男性だろうがあまり関係ありません。ただ、そこに(できれば前向きな)何かを感じて、何かを見つけていただければ、その表現は表現になることができ、意味が出てきます。

今さらながらですが、そんなことに最近気付きました。それが服をつくる理由だったのか。
逆に、自分の表現したものが誰の、何の印象にも残らないなんてゾッとします。


展示会。いつもはじまる前は一応デザイナーなんだからもっとクールに、スタイリッシュにとか
考えてはみるんですが、なんだかんだで僕はアホなお調子者なので、色々な方々とお話している
うちに、ましてやこの服かわいいなんて言われると、僕は調子にのりはじめ、どうでもいい
(むしろいらない)ことをベラベラ話ししてしまいます。それでまたべらべらとアホやっちまったと
後悔する。だいたいいつもそんなかんじです。

僕の服を見て喜んでくれた方、良かろうが悪かろうが、何かしらの印象をもってくれた方、
どこかひっかかって足を止めてくれた方、本当にありがとうございました。

たぶん、そのひとつひとつが表現ということであり、何かの完成に向かっていくことなのだと
思います。