2010年12月31日金曜日

自分の足で歩くこと








今年はよく歩きました。
僕は一ヶ所でずっとじっとしてるのが苦手で、ひまをみつけてはちょこちょこと散歩しにでかけます。この年で散歩が趣味ってどうなんだろ。まあいいや

自転車でアトリエから遠出をすることもあれば、てきとうに電車に乗って気が向いた駅で降りて、
その駅周辺を探索することもあれば、なんとなくとおりかかったバスに乗っていいかんじの所で
降りてぶらぶらしたりとか、はたまた仕事のついでとか、とにかくよく散歩をします。

その日の気分にもよりますが、かなりどこまでも歩きます。そして、その街のもつ他と似てる
けど、どこか微妙に異なる新鮮な空気を吸い込みます。

自分の足で歩くということは骨が折れることですが、どこを通ろうが自由です。
自転車をこぐのも疲れはしますが、どこに行こうが自由です。

だるいっちゃだるいですが、必ずしも辿り着けるとはかぎりませんが、電車では届かない
自分が本当に行きたかった所をみつけることができます。
そんな僕のカバンにはいつも地図が入っています。地図を見てみると、
東京など自分の生活圏に限定してみてもまだまだ知らない所だらけです。
普段よく立ち寄るあの駅も、ちょっと駅から離れたら知らない所だらけです。
僕はやはり変わり者らしく(自分に素直に生きているだけなんですが。。)、
道行く誰もが知っているような、例えば電車の駅の周辺や繁華街よりも、やや奥まった所に
あるような地元の人に愛されている公園や小さな商店街、雰囲気の良いスッキリとした
住宅街の方が好きだったりします。
そして、そういった場所を求めて歩くことは不思議と苦労ではありません。
それに、実際に地図を片手に東京の街を散歩してみると、
例えば、新宿駅から東京駅は以外と近くって自転車で気分転換するにはちょうどいいとか、
日暮里から後楽園もその気になれば歩ける距離とか、
電車だけのつきあいでは気づかなかった位置関係などの発見もありました。

なんというか、あたりまえのことかもしれませんが、自分の好きな場所とか見つけるべき場所は、
電車でチャチャっと行ける駅の周辺とか繁華街とかみたいにたくさんの人が訪れる場所、
誰もが知っているような所が全てなんじゃなくって、ひっそりとそれこそ普通なら行かないような、もっともっと色んな所にも本当はたくさんあるんだろうなと感じています。

ただ世の中の色々で見えにくくなっているだけでその人にとって大切なものは、本当は無数に
あるんだと思います。可能性はいたるところにかくれています。
あると思ってりゃあるもんです。たぶん。
何かに頼りすぎずに、鵜呑みにしすぎずに、自分の足でじっくりと歩きつづけ探しつづける
ことでその人自身ををみつけていくことができるのだと僕は信じています。
 
そういったものをみつけ出すために、これからもしっかりと歩きつづけたいと思います。
今年もありがとうございました。よいお年をおおお!!!!!

2010年12月24日金曜日

きれいなものは勇気をくれる

 

あほあほあほあほあほあほあほまじうんこよこた

最近あんまり出ていなかった悪いくせ。
過ぎたこととかまだ起こってもいない先のことばっかり考えて、肝心な「今」を生きていない状態。
未来に対して良いイメージを浮かべてるんならいいんですけど、
ダメなときの僕はわざわざつまらない所をあぶり出し、見つめて、
なぜだかあえてつまらないことばかり考えている。 
あんときあーしとけばよかったとか、こーしたらきっとうまくいかないとか、もうマゾかよと。
 
そのくせ行動は鈍い。そのくせ体裁とか外っ面は必要以上に気になったりする。
そんなお前誰も見てねーっつーの。臆病者め
つまらない想像がつまらない現実を創造する。あたりまえのことです。だけれども、
つまらない想像をなぜだかしてしまう。これも人間である以上しょうがないことなのでしょうか。

こういうときはきれいなものを見に行こう。おしゃれだとか深みだとか面白いとかはとりあえずいいから、ストレートにきれいだと感じれるもの。
たくさんの人のきれいな夢を見に行こう。


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そんなかんなで足利フラワーパークへ
たくさんの人たちのきれいな夢の集合体が、一生懸命、現実に現れていました。

       




















 
勇気をもって歩こう。うまくいくとかいかないとか、そういうお花死じゃないんです。
もっと素直なものなんだと思います。
世の中にはまだこんなにきれいなものがある。
そんなカップルだらけのイルミネーションの中を、やたらとテンション上がった男3匹で
ニヤニヤと不気味に動き回っていたのでした。 うおおりゃああー


  

2010年12月16日木曜日

人は鏡

 

あいつのこーいうところすごいやだ。あいつはいやなやつだから、きっとわたしがこうした
らあーするだろう。あーほんとなんなの。まじでむかつく。あいつだいっきらい。

「人は鏡」とはよくいったものです。今回は僕がとても興味深いと感じている
この言葉について書こうと思います。

その「あいつ」は「あいつ」でもあり、「私」自身でもあります。

どういうことかというと、全てを知っているわけでもない、むしろ一部しかしらない「あいつ」
に対して、無意識のうちに「私」自身の感情や性質、経験をかさねてしまい、その範ちゅうで
「あいつ」を判断してしまっているからです。

つまり、私がみている「あいつ」は、私の中での「あいつ」と、「私」自身であります。
そこにはもちろん「あいつ」も含まれますが(あいつをよく知ってるほどたくさん含まれることに
なります)、私の目に映る「あいつ」のかなりの大部分は「私」であるということになります。
ここでとても怖いこと。 「あいつ」に対してイライラしているということは、「私」に対して
イライラしているということ。自分に対して攻撃していることにもなります。 誰かに対して
イライラすると、そのイライラは解消されるどころか徐々に蓄積され、どんどん悪い循環に
はまって、しまいにはそんな自分を嫌いになり、自分の存在すら否定することになってしまい
かねません。 それは「あいつ」に映し出した「私」を攻撃しているからです。

人のことを嫌いになるにはそれ相応の覚悟が必要って映画かなんかで聞いたことありますが、
つまるところこういうことも含んでいるかなと思いました。
 
誰かを嫌いになるということは自分を嫌いになるということに、けっこうチョクでつながって
しまうのです。面白いですねー

「人は鏡」

僕はこの、色々な深い意味を見い出すことができる言葉が何気にやばい面白いと
常々感じていて、その面白さをそのうち言葉にしようと思っていたのですが、
いかんせんいざ文章にしようとするとなんだかこんがらがってしまい、又、自分の言葉に
なかなかできず結局ありがちな文章になってしまったりと、なかなか書けないでいました。
とりあえずある程度分かりやすく?ひとつ書けてよかったよかった。

今回の内容は「人は鏡」という言葉から見い出せた、僕が勝手に大切だなと思う、
そしてとても興味深いと感じている側面のうちのひとつです。
この言葉はまだけっこー色々な意味を持っているので、またそのうち別の側面も書こうかなと
思います。 そして、その言葉のもつココロをみつめ、探していくことは
僕の永遠のテーマでもあります。




2010年12月6日月曜日

彼らが見ている世界

 






アトリエのすぐ近くにいる猫です。こやつはアホみたいに人なつっこいやつで、
だいたい同じ場所にいることが多いので毎日のようにふれあっています。
おかげでかなり仲良しになりました。

かわいいやつで、話しかけると何かしら返事をします。ただし、あたりまえのことですが
「おはよう」と言っても「ニャ」、「アホ」といっても「ニャ」としか言いません。野生のくせして
人前でやたら無防備にゴロンゴロンしおってからに。
こいつらは一体何を考えて生きているんでしょうか。
動物と人間の最大の違いは、言葉の有無ということですが、ふと、言葉の存在しない生活とは
どのようなものなのか気になったので、ためしに一日なるったけ言葉なしの生活をしてみました。
単純に、(完璧には不可能ですが)言葉はこの世にないものとしてひたすら言葉を頭に
思い浮かべないようにしました。

それで気づいたこと。 まず、言葉がないと論理的に考えることができなくなり、あらゆる
物事の輪郭を保つことが難しくなり、いろいろとぼやけてきます。人間は頭がいいから言葉を
使い始めたんでしょうけど、言葉を使うことで飛躍的に論理的な思考を身につけたんだなと
感じました。  

そして、言葉を失くすことで論理的な思考力の代わりに本能とか深層的?なものをひっぱり出す
ようになります。思考>本能ではなく思考<本能といったかんじかな。

で、「はっ!」と思ったこと。

この、論理的な思考よりも、(どちらかというと)深層心理的な部分、本能や感情のようなもの
に支配された世界は、夢の中の世界とかなり似ているのではないか。

夢の中に論理や現実的な理屈はあまりないように思います。どちらかというと、その人の
本能や感情に従った、論理性に欠けた曖昧な世界がチャチャチャッと創り出されていて、物事の
輪郭はぼやけていることが多いです。論理がないということは、おそらく言葉があまり存在しない
ということなのではないか。言葉がない分その世界は瞬時にめまぐるしく創造され、
論理がない分 記憶として刻まれにくく、すぐに忘れてしまう。

反対に、現実の世界はどうだろうか。これが見事に夢の中とは反対のようです。
本能とかよりも、どちらかというと論理的思考や言葉に支配された世界で、物事の輪郭は
かなりはっきりしています。記憶も頭にある程度しっかり残ります。

つまり、夢と現実の違いは、その世界において言葉、つまり論理的な思考をたくさん使っている
かどうかによるものなのではないでしょうか。論理か本能か。




猫や犬、パンダ、イルカ。。。 気になる動物はたくさんいますが、彼らは何を見て、
何を感じて生きているのでしょうか? 単純に、人間が現実において比重をおいている思考力や
論理の観点でそれを考えてもあまり意味がないことだと思います。

そもそも彼らはほとんど言葉のない世界で生きています。そして、論理をあまり必要としていない
世界で生きているともいえます。そして、人間にとって彼らは現実世界にいながら、
夢の中にいるようなものなのだという考えに至りました。

動物には人間にとってなぜだか理解しがたい不思議な力(帰省本能や飼い主の帰りが
分かったりとか)がありますが、その不可思議さは夢の中の出来事だと思えばあまり不思議では
なくなります。夢の中ならコツをつかめばできそうなかんじがします。そりゃあ生きてる世界とか
次元が違えば、人に見えないものが見える、感知できたりもするでしょう。

彼ら動物は人間の見る夢と同じような世界を見ている。そしてそういう世界にいる。かもしれない。 
以上、僕の勝手な憶測でした。休日に長々と真剣にそんなことを考えていたのであります。
これが真実かそうじゃないかはどうでもいいとして、まあ本能や感情の面白さを再認識できたし、
論理的思考のおかげでここまで話をふくらますことができ、言葉にすることができました。
そんでもってこういうことの仕組みを自分なりに解釈していきコツをつかめば、
もっと楽しく服づくりができるんじゃないかと思います。

また僕にとって世の中は立体的になり、楽しいものになってきました。